無敵なかわいさ ー第一子と第二子とどっちがかわいいかー

コトが生まれる前に心配していたことが二つあった。一つは、第二子を第一子と同じほど愛せるかどうか。

私は残念ながら妊娠出産を楽しめる類の人ではなかった。その期間の大半は私にとって身体的精神的痛みや苦しみであった。痛みも含めて、一生物(人間)の「生」や「体」のしくみを体感できたことは確かに非常におもしろい経験だった。自分の体を自分以外の人に徐々に支配されていくプロセス、そして同時にその存在を自分の中で大切に育てていくなんて、天地がひっくり返るような経験だった。初めて胎動を感じたとき、超音波で人間の形をした胎児を確認したとき、そして何よりも「ふんぎゃー!」という第一声をきいたとき、ああ、これが「生」なんだと理屈抜きに体で感じ、それなりに感動もした。とは言ったものの、このプロセスをもう一度やりたいかと問われたならば即答で「ノー」!特に妊娠全期間を通してお腹の中の子の健康や生死を心配しつづけることと、悪阻期3ヶ月間の寝たきり生活はもう経験したくない。

では、どうして第二子を持つことにしたのか。それは、第一子ミコを一人っ子にしたくなかったため。順当にいくと親は先に死ぬ。親の死後、肉親で頼れる同世代の人をミコに残してあげたかった。成長する過程で、兄弟姉妹と喧嘩・仲直りしたり、譲ったり譲られたり、我慢したりさせたり。また、同じ経験をシェアしながら一緒に成長することによって幅のある人間に育ってほしいという気持ちもあった。つまり、第二子は第一子のためにうんだようなものだった。こう言い切ってしまうと、第二子が可哀想だがそれが本当のところだった。親として失格だとは思うが、出産前は、第一子ほど第二子をかわいがれるかどうか真面目に心配していた。ミコがかわいくて、かわいくて、これ以上の存在がでてくる可能性が信じられなかったのだ。

ところが、生まれてびっくり。第二子がかわいくて仕方がない。真っ赤な顔をしたおさるさん顔、ふにゃふにゃごろごろ猫のような動き、きょろきょろ辺りを見回す目、バンザイポーズと泣き始める時のふえ〜んという顔、全く警戒心なく身をこちらに委ねるその姿、どれも皆かわいくてかわいくて仕方がない。母は「さすがのミコもこのかわいさには適わないわね」なんて言っているが、まさにその通り。今のミコにはない頼りない弱々しい、新生児期独特のかわいさなのだ。

母と私は第二子コトにメロメロなのだが、H君は相変わらずミコ優先。コトとミコが同時に泣けば、ミコの方へ走る。そして私の方を向いて、「赤ん坊が泣いてるよ。」なんて涼しい顔をして言う。コトが生まれて2週間経つが、抱っこしてあげてと私がお願いするまで5分以上抱っこしたこともなかった。ためしに、「君、ミコの方がかわいいんでしょう?!」と聞くと、『だって、この子(コト)まだサルだもん。』なんて答えが返ってきた。

子どもを産んで男女の性差を実感することがよくあるが、これもその一例。母親はいわゆる母性ホルモンの影響で産後すぐに「赤ちゃんかわいい!」モードが炸裂するが、父親はそういう体の変化がゼロなのだ。(←まわりのママ友に調査した結果もみんな同じ答えだった)「赤ちゃんかわいい!」モードを過去に体験している母も体験的記憶からスイッチが入る。それにしてもうまくできている。一番身近で食(おっぱい、ミルク)を提供してくれる母親は赤ちゃんの虜になるようにプログラムされているのだ。産前の私の心配は無用だったというわけだ。授乳している間はずっとコト優先になることだろう。